店主の赤裸々(?)物語
この際なので、赤裸々に語ります。
もう、隠しておきたかった恥ずかしいことも、書いてしまいます…。
アテクシ店主は、村田誠と申します。
ハンドルネーム、ステージネームは、「まことZ」です。
「Z」はかっこいいアルファベットだから、とかいうトチ狂った理由で付けてるだけ。
意味なんて、ね〜よ!
「マジンガーZ」「フェアレディZ」…かっこいいものは「Z」がついてるでしょ?
それで付けただけです。
1970年生まれ 小平市出身
アテクシは、1970年8月12日、東京都下の東村山市の病院で生まれました。
普通の家庭の、次男坊です。
あ、うちの父親、元経営者です。
兄貴がその会社を継いでいるので、現在は兄貴も経営者。
そしてアテクシも、経営者。
みんな人の下では働けない、問題ありの人格です(苦笑)。
で、当時の本籍は、小平市です。
40代で結婚するまで本籍は、ずっとこの小平市でした。
で、2歳の時に千葉県習志野市に、引っ越して来ます。
2歳から数十年この習志野市なので、気持ち的には完全に千葉県人です!
落ち着きのない少年時代を過ごし、乱暴者で色々やらかして友達もいない様な子供でした。
運動は嫌い、勉強はしない、宿題なんて全然やらない、とにかく怠け者でしたね。
そして生意気だったので、先生とか大人からはものすごく嫌われていて、小学校では担任から虐待を受けていました。
中学でギターを始めるも…
中学生の時に兄貴がやってたエレキギターのお下がりをもらい、弾き始めたのが、ミュージシャンとしてのスタート。
当時はジャパメタが好きだったので、うちの店の開業当初は、憧れのジャパメタのヒーロー達にライブをやってもらったもんです。
中学生の頃からギター始めるっていうのは他の人よりもちょっと早めだったんですが、全然上達せずに、後から始めた友達にもドンドン抜かれていくという始末…。
その後、周りよりも下手なまま十数年を過ごすこととなります。
ギターのセンス、なかったんですね。
そして学生のアテクシは授業は聞いてなかったし生活態度も良くなかったけど、模試の成績はよく(プチ自慢をはさんでみる)、有名国立大学を目指していたのですが、ここで挫折…。
結局2浪して、私立大学に。
アテクシの1コ下の学年が人口が一番多いので、我々の世代はまさに受験戦争状態だったのですよ(と言い訳か?)。
高校の時に理系クラスで数学が得意だったのに、なぜが大学は文学部(笑)。
そして、せっかく2浪もして入ったのに、燃え尽きちゃって中退しました。
国立に入れなかったこと、2浪したことが、その後数十年にわたってコンプレックスになるというね…。
中退だから最終学歴がアレなのも、コンプレックスだし。
女にモテなかったのも、コンプレックスかな(苦笑)。
コンプレックスの、塊じゃんか!(←カワイソウなアテクシ)
そして、この頃は、音楽とかやってなかったなぁ…。
のに、大学やめる理由が「音楽をやりたいから」というもの(ナゼソウナッタ…苦笑)。
ダメなやつがしがちな、クソな言い訳ですな(笑)。
で、大学やめて、バブルの余韻で仕事はいくらでもあったので、就職もせずにバイト生活してました。
色々やったけど、飲食が多く、料理のスキルもこの頃につきました。
音楽学校にも、通ってましたね。
この頃、バイトで作った貯金があったので、半年くらい何もせずにニートしていたこともあったなぁ…。
ハイ、クズでしたけど、ナニカ?
なんとプロのギタリストに
で、その後20代後半でハコバンの仕事を得ました。
ギターのセンスがなかったことが幸いし、夢中で練習してたからなぁ…そのおかげでかなり上手くなって、結果、仕事を得るまでになりました。
人間、できることはすぐに飽きるけど、できないことは夢中になって頑張る、って、ないですか?
アテクシはギターが全然弾けなかったから、それを練習して弾ける様になるのが、当時は楽しかったですね。
んで、ホストクラブとかの夜のお店系とか、パーティーとか、そんなところでムード歌謡とかラテンとかを弾いて(エレキギターでね)、糊口をしのいでいました。
とか言いながら演奏だけでは食えずに、結局飲食店とかのバイトもしていたなぁ…。
月収15万くらいにしかならないよ、と言われて業界入ったのに、10万弱くらいしか稼げずにそのうち仕事も減っていき、ついにはほぼバイトの収入だけになっちゃって…。
音楽業界は、早々に離脱。
その後、建設系の職人になりました。
なので、アテクシ色んな工具を持ってるし、自分の店のステージを作ったりもできたのね。
ミュージシャンの道は諦め
で、30歳になる年2000年7月に、自分で社会人向け音楽サークル(RATA音楽サークル)を、立ち上げたのです。
セッションを中心に、20年間活動しています。
もう、音楽は仕事ではなく完全に趣味、って、決めたのね。
当時はネットなんてまだ盛んじゃなかったので、「じゃマール」「QUANTO」「Player」なんかの紙の雑誌で人を集めてましたよ、懐かしぃ~(笑)。
そして、フルコミッションの営業系の仕事に転職。
ここから毎日ネクタイを締める生活が始まります。
30代は、色んなセッションを企画しました。
月に2~3本やってて、人脈も爆発的に増えて。
で、ネクタイ締めた結果一時期仕事で結構稼いでいて、その時ばかりはちょっとだけ裕福だったので、夜の街で大暴れ(笑)。
が、散財しまくって、だいぶ後悔…(汗)。
典型的な、稼いだ金全部使うクズ野郎です。
で、最近自分が過去に書いていた文章を発見したんだけど、どうやら全くミュージシャンとしての道を諦めた訳じゃなく、また、なんらかの形で演奏の仕事をしたかったみたい…。
なんか、そんなことが書いてあった(苦笑)。
でも、まぁ、そうはならなかったんですよね。
具体的にそっちに行かなかった、ってことは、稼げないからやりたくない、っていうのもあったんでしょう。
ライブバーをやりたい
で、知人がライブバーを始めたんですね。
そこに通っているうちに、なんか自分でもやりたくなったんです。
5年以上その気持ちを温め、41歳になる年、あの震災の年ですよ、2011年に渋谷のとあるライブバー(そのライブバーはもうない)に転職したんです。
そこの雇われ店長になりました。
そこからの独立で、今の店「JAM SESSION」があるんですよ。
開業は2013年7月。
「なんであの店やったの?」って、いろんな人に聞かれます。
みんな、そこらへんに興味があるみたいですね。
まぁ、ライブバーは前述の通り、知人の影響で30代の頃からやりたかったんですよね。
で、40代で業界に雇われで入ったんですけど、本来は自分で経営したかったので、物件はずっと探していたんですよ。
いろいろ探しているうちに六本木で良さげな物件見つけて、お金を貸してもらうために企画書書いて、ってところまでやってたんだけど、その物件だとイマイチ踏み切れないだけのハードルがあったんですね。
なんか、話が進まなかった…。
ってそんな最中に、ほぼノーマークだった御徒町でライブバーの居抜き物件を発見!!
イニシャルの資金をそんなに使わずにできそうだったので、ちょっとだけ内装を替えて、すぐに開業したんです。
そして、かつてはセッションのために毎月10曲以上新曲を仕込んでいたのに、今となってはもう演奏がイヤでイヤで仕方ないです…。
ライブバーの経営者なのに、演奏は嫌いというね。
たま~に、気が向いたら演奏します。
本来はギタリストだけど、ドラムだったらそんなにイヤじゃないかも(笑)。
借金も夢も大きく!!
んで、開業してから結婚したし子供も1人います。
で、2018年は広げた事業に失敗、借金増やしました。
その翌年離婚、そして今は習志野市の実家暮らし、最愛の子供とは離れ離れです。
そして尿管結石、逆流性食道炎、痛風を発症。
もともとリウマチで、原因不明で腎機能が半分まで低下していて、血中の脂肪が高くて、ってことで病気の宝庫です。
踏んだり蹴ったりじゃね〜か(涙)。
目標は、借金1億円超えです!
できる男は、借金も大きいのだ(と思い込むビョーキなんです)。
そして、コロナ禍で借金は順調に増えています!
こんなことを喜んでいるアテクシは、きっと脳みそがメルトダウンしているんです。
今は、色々頑張ってます。
あるマーケティングの先生についていて、そこのグループに参加している社長仲間もたくさんいます。
人と人とをつなぐのが、うちの事業の使命。
自分自身も、たくさんの人とつながってます。